13.誤解、そして旅立ち(ウィルマリア編)
どうしよう、どうしよう、どうしよう───……!
この場から逃げ出したいと思うのに、ラザールの視線から逃れられない。
それどころか、自分の視線をラザールから逸らす事さえ出来なくて、思わずゴクリと唾を飲み込む。
「は、話……?」
「うん。そう。昨日の朝の話」
「………っ」
────もう、ダメだ……!
ここまで言われたら、昨日のキスの話以外あるわけが無い。
頭が一瞬にして真っ白になって唇が僅かに震える。
「あ、……アタ、シ……」
「うん」
「……………」
バレていた事への焦りなのか羞恥なのか、顔がぶわりと熱くなって一気に頭がグルグルしてくる。
今までキスを拒まれていたにも関わらず、我慢できずに自分からしてしまった羞恥と、それをこうやって恋人に問い質される事への虚しさで更にカッと頭に血が昇る。
───……ヤバイ。泣きそうだ。
素直に謝る──それが出来れば苦労はしないのだけど、アタシはその場でスクッと立ち上がり、キッとラザールを睨み付けた。
「……悪かったわねっ! 変な事して! もうニ度としないから安心して!」
……あまりにも自分の可愛げの無さに、悔しくて目頭がジワリと熱くなる。
驚いたように目を見開いたラザールを一瞥して、アタシは目元をグイッと拳で拭い、帰ろうと勢いよく彼に背を向けた。
それからまさに一歩、踏み出そうとした瞬間。
「はい、ストップ」
「……っ!」
左手首を掴まれ、後ろにグイッと軽く引っ張られる。思わず身体がよろけて背中から倒れると思った次の瞬間、スッポリとラザールの腕の中に収まっていた。
「え、ちょっ……ラザール!?」
驚いて彼の腕の中で身を捩り、ラザールの顔を正面から見上げる。すると彼は、少し困ったように眉尻を下げてふわりと笑った。
「ウィルマリアさん、勘違いしてる。私が話したかったのは、昨日の朝のような事をこれから私の方からしても大丈夫なのかって事を聞きたかったんだけど……」
「……え? ど、どういう事!?」
「えーっと、だから───」
そう何か言いかけて、ラザールはアタシの額にコツンと自分の額を当てて来た。
ち、近いっ!!!! 顔が物凄く近いっ!!!!
ドッドッドッドッと、あまりの心臓の煩さとのぼせてしまいそうな程の顔の熱さに今にも倒れそうだ。
それに、あと少しでも動いたら唇が触れてしまいそうで思わず目をギュッと瞑る。
「うん。こういう事」
「…………え?」
唇が触れるでもなく、ラザールの少し残念そうな声と顔が離れていく気配に目を開けると、眉尻を下げて苦笑いするラザールと目が合った。
「ウィルマリアさんは私が触れると、いつも今みたいに身体が強張るんだ。だからまだ、もう少し慣れてからの方がいいのかなって」
「え………あっ……!」
ラザールにそう言われてハッとする。
確かに、今までのラザールとのどの触れ合いを思い出しても、アタシは極度の緊張から身体が固まっていた気がする。
けれど、触れてほしくなかった訳では決してない。
それをどう伝えれば良いのか分からなくて、アタシは顔を俯けてラザールの服をぎゅっと握った。
「だ、だって、仕方がないじゃない。アタシはラザールが全部初めてなんだし、……もっとたくさん触れてくれなくちゃ、アタシだって慣れないっ」
ラザールの過去の恋人を思い出して、ズキリと胸が痛む。アタシは全部初めてでもラザールは違う。
この国では“情念の炎”や“色づかぬ果実”を使用しない限り、初めて付き合った人と添い遂げる人が多いけれど、アタシ達の場合はそうじゃない。
それは当然ラザールが悪いわけでもないし、そんなに珍しい事でもないけれど、アタシの胸のモヤモヤはずっと残ったままだ。
何も答えないラザールが気になって下から見上げると、何故か口元を右手で覆っていた彼はパッとアタシから顔を逸らした。
「ラザール?」
「……いや、ゴメン。これは……参ったなぁ」
そうぼそりと呟くように言ったラザールをよく見ると、彼の耳が真っ赤に染まっているのが見える。
えっ、と驚いて背伸びをするように顔を覗き込むと、今まで見た事がないくらいラザールの顔が真っ赤だ。
驚きと共につられてアタシの顔もジワリと熱くなる。
「え……、あ、の……」
ドキドキと心臓の音が煩くて、最早どちらの心臓の音なのか分からない。
観念したようにゆっくりとアタシの方へと顔を戻したラザールは、口元は手で隠れているけれどやっぱり真っ赤だ。
「……ゴメン。まさかそんなにストレートに言われるとは思ってなかったから」
「え……? あっ……!」
自分で言った言葉を慌てて思い返して気付く。
アタシ、ラザールにもっとたくさん触れろって言ったの!?
顔から火が出るんじゃないかってくらい一気に体温が上がる。そんなアタシを見て、ラザールがふはっと柔らかく笑った。
「……焦らず、ゆっくり進もうか。でも、私も遠慮はもうしない事にする。二度と触れられないのは困るからね」
アタシの頭を撫でながら目線の位置を合わせて屈んだラザールが、ふと目を細めて少し意地悪く笑った。
自分で言った言葉を思い出して、カッと頬の赤みが増していく。
悔しいけれどラザールは、やっぱりアタシよりもずっと大人だ。
そんな彼を少しでも翻弄してやりたくて、アタシはラザールの服をギュッと握り上目遣いでジッと彼を見つめた。
遠慮しないんでしょう? と意思を込めた瞳で、彼を少しだけ挑発してみる。
するとラザールは、ふと小さく笑って、
「軽くだったら大丈夫?」
と、確認してきた。
律儀だな、と思いつつも“何が”とは言わない彼に、心の準備をする僅かな時間を与えられた私もコクリと頷く。
ゆっくりとラザールが近づいてくる事にドキドキしつつもそっと目を閉じると、唇にチュッと軽く触れて離れていった。
本当に軽くだったなぁと、少しだけ心に余裕が生まれて目を開けると、更にチュッ、チュッと額や頬、鼻先、そして何度も唇へと軽くキスされてパニックになる。
「ちょっ……待っ……ラザールッ!? 軽くって、あのっ、……一回じゃ、ないの……!?」
逆上せるんじゃないかってくらい全身が熱くて、必死にラザールの胸へと手を置いて距離を取ろうともがく。
するとアタシの耳元にチュッとキスを落としたラザールは、「そんな事言ったかな?」とアタシの耳元で囁くと、また唇へと軽いキスを繰り返してきた。
そ、そんな事、言ってはいないけれど……!
でも軽くなんて言われたら、誰だって一回なのかなって思うでしょう!?
嬉しいけれど状況に心が追い付かなくて、ドキドキし過ぎて足腰に力が入らなくなってくる。
「も、無理……」と、足元から崩れ落ちそうになるアタシをラザールがグッと腕で引き寄せて支えてくれた。
「……ゴメン。やり過ぎた」
「ゆ、ゆっくりって言った」
「うん、ゴメン。反省してる」
眉尻を下げたラザールに顔を覗き込まれて、嬉しいやら恥ずかしいやらでアタシは顔を見られないように彼にギュッと抱きついた。
「ふ、ふふふ深く、は、あの、もうちょっと慣れてからで……お願い……します」
「ハハッ! うん、了解ー」
やっぱりラザールは、いつでも余裕で腹が立つ。
絶対いつかはアタシが翻弄してやるんだから! と心に誓いつつ彼にもう一度ぎゅっと抱きついた。
***
最近、やっと仕事にも慣れてきて行事も上手くこなせるようになってきた。
ラザールとの交際も順調で、正直なところ少しの間も離れていたくはないのだけれど……そろそろ遊学でオスキツ国王の国に行かなければいけないのだ。
王家の人間は代々、国をより良い方向へと導く為に時間軸の違う王国へと一定期間遊学に赴く事になっている。
行き先は自分で決められる為、アタシは以前この国に遊学に来ていた彼らの国に行こうとずっと前から決めていたのだ。
ブヴァール家のみんなに久々に会えるのは楽しみだけれど、ラザールと離れるのは少し、いやかなり憂鬱で正直気分が全然上がらない。
「……はぁー」
父さんの肖像画を見つめながら、今日何度目か分からない大きな溜息を吐く。
ラザールも一緒に行ければいいのに、なんてあり得ない事を考えながら、もう一度父さんの肖像画に視線を移してハッとする。
そうだ……! そうだよ……っ!
なんでこんな簡単な事に気付かなかったんだろう!
なにも“他の国”に固執しなくても、時間軸の違う国であるならば、遊学はどこでもいいはずなのだ。
となれば、アタシが行きたい国はただ一つ……!
さっきまでの憂鬱な気持ちが一気に吹き飛んで、今度はワクワクしてくる。
単純なアタシは、三日後に迫る遊学の日に向けて、大急ぎで仕立て屋へ向かうべく城を飛び出した。
***
旅立ちの朝、港に立つアタシのお見送りにラザールが来てくれた。
彼はお人好しな性格ではあるけれど、ちょっと心配性でもある。アタシが寝坊して朝ごはん抜きで国の行事に出たりすると、こうやって必ずお弁当を届けてくれたりするのだ。
でも今朝は、流石に母さんに起こされて朝ごはんはしっかり食べさせられたのだけれど。
心配そうな顔でお弁当を差し出すラザールに、嬉しくてアタシは笑顔で頷いた。
「ありがとう、ラザール。船の中で食べるね!」
流石ラザール。アタシの大好きなラゴサンドのお弁当だ。
お弁当を笑顔で受け取ろうと両手を差し出すと、左手首を掴まれてグイッとラザールの方へと引っ張られた。
あっという間に彼の腕の中にいる事に驚いて顔を上げると、ラザールがふわりと笑う。
一気に胸が高鳴った。
突然の甘い空気に咄嗟に反応が取れなくて、目を見開くアタシにラザールがふと笑ってキスをする。
「行ってらっしゃい。身体には気を付けてね」
「うん……」
ポンポン、と優しく頭を撫でてくれるラザールに愛しさが募って、思わず彼の服をギュッと握りしめる。
───離れたくない。
だけど、……アタシにはどうしても会いたい人がいる。
帰ってきたら、目一杯ラザールに甘えようと心に決めて最後に彼にギュッと抱きついた。
***
あっという間だったな、なんて思いながら静かな港を見渡しつつ、ゆっくりと船から降り立った。
まだ早朝だからか周りには誰もいない。
降りる寸前に着替えた旅人の服の地味さに、また少しだけ気分が下がった。
王族が遊学の時は目立ったらいけないらしく、旅人に紛れる為に着替えさせられるのだ。
それにしても、───変な感じだなと思う。
見た目は全く自分の国と変わらないのに、アタシはこの国に“まだ”存在してはいない。いや、存在するかもこの先分からない国なのだ。
そう思うと、なんだかドキドキしてくる。
早速、会いたい人の元へと向かうべくアタシはエルネア城へと急いだ。
***
───王家の居室。
自分が産まれてからずっと、今でも住んでいる場所だ。
変な緊張で、一気に心拍数が上がってくる。
そう───、アタシは、父さんに会いたいのだ。
王の仕事を学ぶのならば、アタシは父さんから学びたい。子供の頃は学生だったし遊ぶ事に夢中で、父さんの仕事なんてほとんど見てもいなかった。
だから大人になってすぐ、父さんが居なくなって物凄く後悔したのだ。
そっと居室のドアを開けて、中へと声を掛ける。
だけど返事は返ってこなくて、勝手に中を見渡すと父さんは出掛けた後だった。
えっ、今何刻!? と慌てて時間を確認するも、まだ朝の二刻だ。
父さん、こんなに朝早くからどこに行ったんだろう、と疑問には思ったけれど、居ないのなら仕方がない。手持ち無沙汰で隣の騎士隊長の居室をノックすると、中から聞き覚えのある、だけど少し幼い声が聞こえてきて一気に嬉しくなった。
───母さんだ……!
どうやら過去の年末にアタシはやって来ていたようで、成人前の母さんに会えてなんだかほっこりする。
小さい母さん、可愛いーっ!!
と、なれば。
母さんだけじゃなく、アタシの周りにいる既に大人だった人達は、全員まだ子供だという事だ。
父さんに会う事ばかりを考えてこの時間軸の国を選んだけれど、自分より幼いみんなを見れるなんて一気にワクワクしてくる。
母さんと少し話した後、アタシは国中の人に声を掛けて回った。
いろんな人が若かったり幼かったりで、楽しくてめちゃくちゃ気分が上がる。
小っちゃいレノックス可愛いーーーっ!!!
まだ学生前のレノックスに会えるって事は、もしかして、もしかしなくとも……!
そう思った時、遠くに居ても分かる彼の姿にドキリと胸が高鳴った。
───ラザールだ……!!!
まだ幼い、学生の頃のラザールだ。
なんだか急に緊張してきて、近づいて来る彼に声を掛けようかどうしようか迷う。
一瞬、チラリとこちらを見たラザールと目が合った。
だけどすぐ様視線を逸らしてアタシの横を通り過ぎてしまったので、思わず彼の背に向かって声を掛けた。
わーーー!! わーーーー!!! ラザール可愛いーーーっっ!!!!!
振り向いて挨拶を返してくれるラザールが可愛くて、緊張で顔が引き攣っていたアタシの頬も自然とゆるむ。
あまりの可愛さに何度も話しかけてしまって、別れ際のラザールは若干引き気味だった気がする。
んーーーー、ちょっと失敗した、かも。
とりあえず、ヤーノ市場でご機嫌取り出来る何かを買おうと向かうと、一気に場の空気が変わった事にドキリとする。
これ、……この空気、アタシは知ってる。
市場の前の人混みを抜けて、会いたかった父さんの背中を見つけて涙が込み上げる。
「あ、あの……っ!」
父さんだ、父さんだっ、父さんだっ……!!
アタシの声に振り返った父さんは、あの頃と変わらない穏やかな表情でこちらを見て立ち止まった。
「はい、なんでしょう?」
涙が溢れそうになって、だけど必死に溢さないように言葉を紡ぐ。
───旅の人。
そう、今のアタシはただの旅人だ。
久々に会えた父さんに抱きつきたい衝動をグッと堪えて、目の前に生きて立っている父さんを見れた喜びを噛み締める。
「あの、この国の王様のお仕事を教えてください」
上手く笑顔で言えたかは分からない。
だけど、父さんが笑顔で頷いたところを見ると、
──アタシはちゃんと笑えていたのだろう。